うさぎとピクニック

うさぎと、自転車、田舎での日々

勝手なつぶやき

変化の東京行

東京にはべつにリスと戯れにいったわけではなくて、
いま行かなくてはならない気がして、急きょ。


いってみればあまちゃん小泉今日子三陸から
東京の太巻さんに会いにいくようなかんじ。


反発して飛び出て、そして昔の時代をともに過ごした社長から、
理解者として、ふたたび呼ばれ、和解、とでもいうのかな。
そしてまたなにかともに作品を作ったりはないだろうけど。


車で行きも帰りも、15キロ程度の渋滞にはまりながら
急いだけど4時間、やっぱり遠いや。
それにしてもどうも周りの車がよけてくれるんで
なんでだろう、赤フィット
すいませんと謝りながら。


このいつも、仙台をぐるぐるしている相棒の車で
皇居のお濠ばたを走る違和感ありに耐えながら
街が以前とちがう違和感も同時に味わっていました。
街が狭い、小さくなったみたいという感じ
東京のいつも歩いていた神田とかって、
こんな小さかったっけ…。
大人になってからみた公園の狭さのよう。

以前と違っているのか、以前と同じなのかすら、
わからない遠い時間離れていた東京なのです。


リスと遊んで、さて仙台に帰ろうとしたら、
ケータイがなって、昨日同席したひとから、今日何時頃店に来るの?
え?なんでしたっけ…。
前日の夜、昔いた会社の社長やなんかと飲みながら、
そのときなんか、話を持ち掛けられたみたいで
そういう記憶はないのだけれどよくよく話を聞いてみたら

仙台でoガニックで束ねる仕事をしないかと
いう話になったらしくて、
おーやりましょうと、ぼくが言ったらしい。

で、それと並行して東京のいまやっているひとつの店を経営しないか
いまから店に見に来てほしいという電話でした。


んなこといきなり言われても。

 

でも、経営を譲るっていうのはどういう意味なのか、
パート20数名、数億の売上があるものをただ、引き継ぐっていうのも
へんな話だし相応出して店を買い取るってことなのか
金なんかないぞ、えっへん。

その店は10年以上前oシックスを始めるときノウハウをほしいと
いうことで何人か社員に来てもらい、
教えたことがあるとかひとから聞きました。
そしていまや、飛ぶ鳥を落とす勢いのoシックス。
そういえば有機の畑を広げたいからと道をつくって
どんどん前に進み、作ってはどんどん人に渡してきたひとだった。

Cレヨンハウスのoガニック部門も作って、取引先を渡したっけ。
当時は無農薬野菜とか有機野菜ってなに?と聞かれ農薬の害から
説明して販売していた時代から少し社会に扉が開かれつつある時代でした。

白神の酵母も開発したのに、
その販売権は自分ではない会社に行ってしまったとか。

そういえば、ぼくも昔の記憶たどり、よくよく考えてみたら、
Rでぃっしゅおーやをたちあげた当時の社長や、
実質Rでぃっしゅのシステムを作ったTさんも
何度か飲んだ知り合いでした。
いまは、ちょっとなあ、な思いを抱えていますけど
苦戦しているというので、やはりおなじアナのムジナかな。
で、そんな話をしながら、藤田さんという、大地の創業者が
作った器で、酒を飲むってなんだか、この集まり自体が
一興。

それにしても、店舗経営は仙台から指示すればいいとか
なんでも仙台に卸すかとか仙台で作ってくれとか、
軽く言われても、ほそぼそとやっているぼくは、戸惑ってしまう。
身の丈以上にやっていいものかどうか。
背伸びしてやろうとして、人の給料支払分まで
働かなくちゃならなくなって大変だったこと思い出すのです。
店ともなると雇用するひとへの責任にも震えてしまうし
そんなに簡単ではない 多くのこと。
からだはひとつだし、お金はないし。

帰りは、首都高速、案内板のとおり
東名から、池尻で東北自動車道方面に曲がったら
延々と続くあれれれ180度まわって、アララまだ続く
360度カーブどころか
720度以上の下りカーブ60キロでぐるぐるした後
地下にきたみたいで、あとはずーとトンネル。
王子あたりで上に出て、びっくりです。
ずっと東京の地下をとおりなんと10分くらいで、東京横断。
信じられません。



あのね、ぼくね、仙台でやりたいことは
うさぎランドとかリス園とかです。

 

 

東京はひとがいっぱいいました。
けど、ぼくは仙台がいいや。
こじんまりと小さくて楽ちんです。
こんなぼくでもできることかありましたから。

東京は、とても疲れたんです。
いつも変化し続けていないと
飽きられてしまう街。

 

さてさて、とりあえずどうしようか。

えっそらちゃん撫でられ放題やる?
よし、作ろっか。