うさぎとピクニック

うさぎと、自転車、田舎での日々

勝手なつぶやき

 

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 自分の内面でのこと

 

こどものときから、忘れっぽいとか飽きっぽいとか
言われてきた、
自分でも気が散るとか集中力が長く続かないという風には
感じていた。それはもうずっと。


でも違うようということにほんのさっき、たったいま気が付いて。
昔から考えざるを得なかったのは、自分が人と違うのはなにか。
なぜかではなく、なにが違うのか。


わかったことは、行動している瞬間瞬間でぼくはただ
いつも最良と思う判断を繰り返しているのだと。
単純だけど、ただそれだけ。。


忘れっぽいのはぼけっとしているのではなく、
考えて判断したことは、すでに自分の
なかで終わっているのでまたすぐ別のプロセスへすぐ
歩をすすめているからだし


飽きっぽいのは、そのことはもう終わったことだから。
気が散るのは瞬間にいろんな情報がはいってくるので、当然だし
じっとしていられないのは、思い立ったらすぐしないと次の判断があるからだし
集中力が続かないのは、同じようなことを繰り返すし集中しないとならないのは
熱を持つみたいに頭の中が疲労するから。

(いま書いていてもすぐ書いていることに興味を失い意識が途切れる)


でもね、五感に感じながらその場の瞬間の判断の繰り返しは
それらが心地いいことなら、ずっとそこにいられるし
感じることが幸せなのだけれど、逆にそれらが不快なことだと、
もうその場から逃げ出したくてたまらずそのことしか考えられなくなる。
だから、じっとしていられないとかいう評価だけされると
自分でどうしようもないこと。


自分がしたいこと、いいと思うことをするといつも怒られるから
判断基準に人の価値観をいれなくてはと学んだ幼い日

自分がしゃべると人を傷つけることも知って言いたいことは言わなくなった。
苦悩を知った。
見た目は普通になったけど自分をつぶした


そのころから混乱が始まり、わがままだとか、判断がブレて結果として
ひとを振り回すというマイナスにとられるようにも。
どうしたって傷ついてばかり、いろんな人もいる、もう
そんな違うひとの価値観に合わせられないし
あわせようとしても、できない苦しみのなかに自分を
おとしてめるだけ、

ついでに書いておくと、かた付けができないのは
できないのではなく、出したその時の記憶で頭の中は閉じられるので
つぎからはだしたその位置からスタートしている、
かた付けることは頭の中の記憶や思考を一度無意味と捨てることなので
洗い物なども簡単にはできない


自分は自分の価値観で生きなくてはと気が付いて
仕事時間中に、考えすぎてあたまがショートして動けなくなり、
静かなトイレの個室で小一時間ただうつむいていたこと
いまも時々思い出す


あの時代が続いているような錯覚もたまに起こすけど、いまはもう違う


もう、自分がしたいことをできる環境を作るしかないと、
追い詰められながらも会社勤めをやめて、よかった…
お金はあんまりないけどね。
なにより守りたいものをちゃんと守れている。


グリーンカーテンにしていたアケビ
初めて実がついた。
三年目にしてこれはうれしい。