毎週、浪江に行くというのを自分に課しているわけではないのに
なぜか行ってしまって…気が付くとだんだん疲れが。
ひとのいない浪江です、行ってもなにもありません。ただ
かつて普通に人が生活をしてにぎわっていた場所があるというだけ。
いま自分が訪れてる意味としては、なにもないいまの姿だからというわけで
そこに郷愁や怖れはとくにないわけです。
そかなことなのでいままでただ行くことを目的にしていましたが、
調べてみると、二件ほど食べ物屋さんはあるよう。
浪江を訪れて食べ物を扱う店で食べることで、そこに住む人の
暮らしが成り立つならと、関わりを積極的に持つことはできなくても
できることはしたいなと思い始めています。
こんな人たちもいるみたいで、少しやり取りはしたのであいさつくらいしてこようかとも。
それと、現実としては
爆発した東京電力の原発から10kほどしかないという距離にあるのですが
その浪江に東北電力の原発を作る計画がかつてあり
地域住民が結束して、先祖からの土地だからと結束して売らず国と戦い
そのことで東北電力の原発が浪江にできなかった、という知られざる出来事が。
もしできていたら、いままでそんな波が来たこともないところなので
引き潮で水を吸えず、空焚きになったり
同じように波をかぶり、電力喪失していたかもしれないということが言われているそうです。
ぼくはとにかく浪江にはなんの思い入れもないのだけれど
津波に増して、自分たちに落ち度がなにもないのに、土地を追われという
どこかの国の先住民族のような、哀しい現実の
しっかりとこの先見ておきたい、という欲求がわいてきました。
もし自分が浪江に住むとしたら
不毛な土地でどうやって生きていけるだろうかとも。
浪江駅前の放射能の数値は0.6マイクロシーベルト。
仙台のそれより13倍ほど高い数値で山川はさらに高い。
いろんなことを考えながら本を読みました。
60年代高度成長期時代に隣の双葉町に東京電力の原発ができることが決まり
東北電力は宮城県女川にでき、そして浪江でも建設が決まり
用地買収を進めていたのだけれど、地元の強い反発でいまだに着工されていない
(計画はまだ生きている)
場所に、共有地があることから、みなで土地を売らないという
意思表明をして団結をしたときの記録から少し、以下に引用します。
という書き出しで始まるそれは、予定地周辺の農業の現状と問題点を列挙。海岸線一帯の山林の開田、開畑が必要であり、電源用地として失うことは
「農民としてまことに忍び難い」としてその心情をこう訴えた。
「たとえ、これらの見返りとしての補償金を得たとしても、いったん手放した農地は再びわれわれの手には還らない、農民にとって土地は生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさとでもある」そして最後にこう結んだ。
「働く農民の利益を守るため、あらゆる障碍を排除して、この土地を守り抜くことを誓うものである、従って、我々の土地を東北電力の原子力基地にすることおよびこれを誘致しようとする町当局のあらやる措置に対し、慎重で且つ良識のある反省を促しながら断固反対するものである」
「隣の町にできてっから同じでねえかっつう者がいるが、ばかこくでねえ。
そんなことをしたらハア、事故の確率サふえるばかりでねえか」
」
いまその中心人物だった、舛倉隆さんは、震災の4年前に亡くなっています。
いま生きていたら、
だから といったでしょうか。
なのに 、でしょうか。
ただ、本にはこのことは書かれていない…。
河北記事