震災以降とある理由で子供の消えた「過疎」があります。
家族という形が孤独に変化していることを思ったりします。
自分などがひとり抱えて過ぎた時をたまに振り返るとき、
ほんとの家族といたかのような肌触りを感じることを思うのは
家族ってなにか説明しなくてもわかってくれるものというのなら
語らずとも分かり合えるというのはひとりの世界。
そんなぬくもり感は知るものの自分という存在を許される家族という
もうひとつの世界はもう幻想になってきたのかもしれません。
それは最近と言わず他人に感情を説明する場面が面倒だという自分で…
これはあれだ、もしかすると、あれなんだ。
年寄りが同じこと繰り返し話すのは、たったいま自分が話したことを
忘れてるんだと思ってたけど
もしかすると 違うのかもと今の自分と照らし重ねて
それは言いたいという感情があるのに、その感情を
表現するうまい言葉がみつからず、そこに至る
事実をもって説明をし始めるものの
結局感情を言いえていないことで歯がゆく
なにか伝わらないから違う言い方で努力して
説明しようとするけれど 語彙がなく、やはりいいかえる言葉もないから
同じ言葉のいいかたに落としこむしかなくなってしまう。
せいぜい話す順が帰納法にかわるくらい。
だから長くくどいことになる年寄りは
いいたいことが伝わらず、赤ちゃんみたいに怒りっぽく
伝わったかどうかいつも不安を抱えて話すんだろうね。
共有のない投げかけた言葉の孤独。
さてと。